起床と就寝の繰り返し

起きている間にやったことの記録

最初の一本だった可能性

コンビニで若いサラリーマン2人組みが、商品の棚の金属になっているところを鏡にして自分の髪を見ていた。「さっき白髪が一本あったんすよ〜」と言うことだ。一本あったのなら何本かあるだろう。サラリーマンもそれが気になって探しているのだと思う。

うん、一本あったのなら何本かあるだろう。

しかしである。本当に最初の一本だった可能性もなくはない。本当の本当に白髪の最初の一本。

もしそれに巡り会えていたのならあのサラリーマンは幸せである。なんでか分からないけど幸せな感じがする。

昨日の俺は何バイトか

パソコンの整理をしていたら、昔のデータに「昨日の俺は何バイトか」というワードのデータがあった。開いたら改行もせずびっしりと文字が書かれていて、朝起きてからのできごとがすごく詳細に書かれていた。こんな夢を見たとか乗り換えで駅のこういう場所を歩いたとか、どうでもいいことが執拗に詳しく書かれている。これを1日分やって、ワードのデータが何バイトになるのか知りたかったのだろう。記録はお昼ご飯を食べにパスタのお店に行って、注文をしにカウンターに行くところで終わっていた。途中で飽きたのだと思う。14.6KBで、2,359文字だった。飽きるの早いな。

「いいから電話に出たのだ」

仕事の電話を受けると、第一声が「今いいですか?」の人がいる。

「いいから電話に出たのだ」と思うが、これは電話に対する姿勢の違いなのだと思った。

「今いいですか?」を言う人って、自分もまた、何があっても電話にはとりあえず出るタイプなのだ。電車の中で「(すごく小さい声で)今電車だから掛け直す」と言って切る人がいるが、あれもこのタイプだと思う。

対して僕は出れなそうであれば電話には出ない。人としゃべっていたり電車や車の中だったら出ない。(相手にもよるけど)

だから自分がかける時「今いいですか?」とは言わない。

結局職種次第だとは思うのだけど、どっちが世間的に多数派なんだろうかと思うことがある。

「ここは何駅か」が分かるサインがない

駅の改札の外で待ち合わせていて、不意に「この駅で合っているのか」不安になる時がある。そうなってしまうと、相手が別の駅の改札の外でイライラしている様子が浮かんでしまい、もう全然落ち着かなくなってしまう。

そういう時はスマホを見て相手とのやりとりを見返し「そうだよな、〇〇駅だよな」と確認する。そのあと自分のいる場所が〇〇駅かどうか確かめたいのだが、駅の改札付近に「ここは何駅か」が分かるサインがない。出口やホームについての情報はたくさんあるのだが、大前提としての「ここは何駅か」が無いのだ。

外に出て、駅の看板のところまで行かないと無いのだ。しょうがないのでスマホの地図アプリを見て現在地が〇〇駅か確認する。確かに〇〇駅であることが多いが、GPSが間違っている可能性もなくはない。でもその場を離れると、その間に相手が来てしまうかもしれないから、地図を見ながらじりじりと時間を過ごす。

「ここが何駅か」分からないのだ。

駅の栄えている方

「駅の栄えている方」って言い方があるけど、あれって実際どうかと考えると、ただ交通量が多かったりバス停があったり日高屋があったりするだけだ。ただ人の行き来が盛んで、日高屋があったりするだけなのだ。

もしかしたら「栄えてない方」の駅の出口に金塊が埋まっているかもしれない。そこまで飛躍しなくても、住人が毎日幸せで満ち足りた生活を送っている可能性は大いにある。

でも僕たちは日高屋がある方を「栄えている」と呼んでしまう。富でも権力でもない。日高屋こそが繁栄の象徴なのである。