起床と就寝の繰り返し

起きている間にやったことの記録

ざるそば

急いでものを食べるのが好きじゃないんだけど、ざるそばだけは急いで食べても良さを感じられた。

…っていうことが書きたくてブログの編集画面を開いて書いた。書き終わった。こんなにすぐに書き終わるならツイッターでよかったなと今思っている。「これならツイッターでよかったな」という部分を書き足すことによってブログならではの長文の良さを出そうとしているが、別に出ていない。

自動ドア

久しぶりに管理画面を開いたらこんな文章が下書きにあった。何かの途中なのでしょうか。よく分からないのでそのまま公開する。

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「自動ドア」って説明不足だと思う。

まず、何が自動なのか分からない。ガラスの透明なドアに「自動ドア」と書いてあるだけだからだ。自動で計算してくれるのかもしれないし、自動で洗車してくれるのかもしれない。自動でカロリーの計算をしてくれるのかもしれないし、自動で絵画の音声案内をしてくれるのかもしれない。フタを開けてみれば「開閉」が自動なのだと言う。そうか。開閉がな!と思う。

あと、操作方法が分からない。自動と言えど動作のきっかけになるこちらからのアクションが必要なはずだ。ボタンがあるのか。あるならどこにあるのか。もし押しづらい場所にボタンがあったら、それを押す労力でドア開けるわ!と思う。聞けば正面に立てばいいのだと言う。そうか、立てばいいのだな!おい!便利だな!!と思う。

大晦日に見た夢の記録

娘を入れようとしている保育園、しっかり説明会にも行ったのだがその建物には秘密の地下室があった。螺旋の階段を恐る恐る降りてみるとすごく広い。大理石の柱とかがあってルーブル美術館の入り口みたいになっている。そこではすごく怪しげな集団が壁を向いて踊っていた。フロアにぎっしりいるから何人いるか分からない。それくらいたくさんいる。みんな無言でゆっくりヨガっぽく踊っている。人と目を合わさないポリシーを持つ集団の儀式である(夢だからそういうことが直感で分かる)。部外者は入ってはいけない場所なので、その集団に溶け込んでやり過ごさなければいけない。一緒の踊りを踊りたいのだけど、人と目を合わせたらいけないので人の動きを見るのが大変。しかも壁にはところどころに鏡があって、鏡ごしに人と目が合いそうになって大変。そのあと忘れたのだけど、なんか色々あって走って逃げた。木から木に飛び移って何とかなった。起きてすぐ、これが初夢なのか、最悪だ、と思ったけど大晦日の夜だったのでセーフ。

何を食べればいいか分からない時

お腹が空いたので何か食べようと街をうろうろするのだが、自分が何を食べたいのか分からなくて途方にくれる、ということがよくある。

この間コンビニでそういう状況になった。お弁当、カップ麺、パン、パスタ、冷凍食品、何を食べてもおいしそうなのだが、同時に「なんか今じゃないな」と思ってしまうのだ。しかし1日に3回しかない食事の機会。なるべくなら悔いのないものにしたい。そんなことを考えているとコンビニを何周もうろうろすることになる。動物園にいる、檻の中のトラだ。いや、そんなかっこいいものではない。ニワトリ、ニワトリだ。ケージの中のニワトリである。

そんな時に、食べたことのない「チャーハンと油淋鶏」というやけに茶色い弁当を手に取ったら気持ちが落ち着いた。一つの答えが出たのだ。

何を食べてもなんか違うな、と思う時は食べたことないものを手に取れ、だ。

知らないものを食べると、味はどうあれ自分がひとつ前に進む経験ができたな、という感触がある。味はどうあれ、だ。好きな味じゃなくても損はしていない。「これは好きじゃない」という情報を得られるからだ。

そういうわけで、特に食べたいものがないのに食事の時間になった時は冒険のチャンスである。いい知見を得た。

チャーハンと油淋鶏は、なんかずっと茶色いしもそもそもそもそしていた。

「申し訳ない」

「申し訳ない」という言い回しがある。謙譲語の「申す」を「言う」に戻すと「言い訳のしようもありません」という意味なのだろうか。調べていないのでよく分からないが。

そして「申し訳ある」という言い回しはない。申し訳は常に無いのだ。「ある」申し訳は申し訳ではない。「言い訳」である。申し訳は無いからこそ、そのアイデンティティを主張できる。「空席」とか「空き地」とか「欠員」などと同じ言葉なのだ。

仏教に色即是空という言葉があるが、多分そういうことなんだろう。色(申し訳)は、即ち是れ空(無い)なのだ。あると思っているものも、実は自分の些細な認識能力の賜物でしかなく、実態は空に等しい。申し訳に固執して己を見失ってはいけない。申し訳は常に無いのだ。しかし無いからこその申し訳でもある。空即是色。

色即是空のことをよく分からないで書いてしまったけど、なんとなくこういうことなんだと思った。

星野源のファンになる

子どもをあやす時、星野源の「ドラえもん」を歌っている。「どどどどどどどど」のところが楽しいからだ。

いよいよ星野源が好きになってきてしまって、他の曲も聞こうとしている。でも今から大ファンになったとして、他のファンの人としゃべる時に「『ドラえもん』からファンなんです」って自己紹介、かっこ悪すぎるなと思った。あの流行った『恋』ですらないのだ。2月になってやっと冬物のコートを出してきた、ぐらいの鈍臭さである。だからファンになったとしても人には言えないかもしれない。